庭にはにわ奇譚

フリーゲームVtuberがたまに文章を書くところです。

ものづくり、私を解放するための――P丸様。「あたしのクマ」歌詞読解

自分は長らく神聖かまってちゃんのファンをやっていて、かつP丸様。も可愛いから好きだ。

の子がP丸様。に楽曲提供してくれているのはだからとても嬉しいことですね。

 

ちょっと前に神聖かまってちゃんが提供した「あたしのクマ」という曲があるのですが、自分はこの曲が本当に好きで、今でも聴くたび心がとんでもなく揺さぶられる。

youtu.be

歌詞全文

www.uta-net.com

ただ、歌詞でずっと気になっていたことがあったんですよね。

それについて考えていたら歌詞解釈が自分にとってすっと一本筋が通ったような気がしたため、ブログを書いている次第です。

この曲って結局一体何を歌っているのさ、、、ということの一解釈を、愛情の表明としてしたためてみます。

ラスサビ「昨日できた あたしのクマ」の謎

一番のポイントである歌詞で気になったことの話から始めよう。

P丸様。Ver.を聴いていて、ちょっと違和感があったのが間奏のあと転調し、一番盛り上がって最後のサビに突入する部分。

怪獣ばっかり集めて破壊し続けていく
泣きながら灰色の空向こうへ
何もない錆びた線上で
病んでく自分が嫌になる
もう一回全部消してしまいたい、ねえ?!

昨日できたあたしのクマ ぬいぐるみクマ

最後のサビに接続する部分にあたる「昨日できた」という言葉に何となく違和感があって。

ぐわーっとくる楽曲の盛り上がりと、この説明的な言葉が、どうしても不調和な気がしていました。

こんなに感情的な曲なのに、なんでこの大一番でこんなに説明的なんだろう?

 

それで、作詞曲をしてるおじさん(の子)が歌っているバージョンを見つけたのでこの部分をどう解釈して歌っているのかを確認したら…

※3:50頃

www.youtube.com

「昨日できた」の部分、一番感情込めて狂気的に歌ってるやん!

そうなんですよね。曲の展開的にここが一番のキメの部分だし、この歌い方は本当に完璧。これだけ感情的に歌う場所だからこそ、この場所に来る歌詞なんだよ!

でもなんで…?

 

と思ったまま1年以上聴いていたところ、ふっと考えがよぎりました。

逆に考えてみよう。

「昨日できた」ことが一番大切なんだとしたらどうだろう?

「昨日できた」ことがこの曲を理解する鍵だとしたら?

 

友達としてのぬいぐるみについて

じゃあ一回冷静に歌詞を読みなおしてみましょう。

この曲の主人公は教室の中で居場所がない、友達もいない孤独を感じている(おそらく)病んだ少女。

席替えした教室で浮いてばかりいるから
消えたいって感情と昨日のその残像が
仲良かった子なんてのは元からいないし

風の中は殺風景 犯罪級になる深呼吸
泣きながら灰色の空向こうへ
何もない錆びた線上で
病んでく自分が嫌になる
もう一回全部消してしまいたい、ねえ?

あたしのクマ ぬいぐるみクマ
真っ黒に染めるこの世界を抱きしめてく

普通にさらっと読むと浮かぶのは「友達のいない少女が、大好きなぬいぐるみだけが友達で、心の支えにしている」というストーリーでしょう。

ここには、メンヘラ的なキャラクター性のステレオタイプとして回収できてしまいかねない浅薄なイメージがあります。

心の辛さがいくら本物でも、このままでは病んでる痛い子のあるあるとして消えてしまう。

ここに、先ほどこの曲の鍵とみた「昨日できた」という情報を組み込んでみよう。

 

自分の心の支えにぬいぐるみがある…というのは、まぁ理解できる。

ただ、そのぬいぐるみは”市販のもの”でも”貰いもの”でもない。

そして子どもの頃からずっと一緒にいたわけでもない。

少女がずっと作っていて、ようやく"昨日できた"お友達、だとしたら?

闇や狂気は一層深まりを見せるのではないか。

 

曲のストーリーをとらえなおそう。

少女は社会の中に居場所を持たず、孤独感を持っている。

当然、そういった思いを聞いてくれる人も誰もおらず、悲鳴を上げることもできない。

そんな中、自分の友達としてクマのぬいぐるみを、自分のためだけに作っていた

「さあいでよっ!」って言えば魔法のようなんだね
破壊したい事ばっかり浮かんじゃうな今日も
消えたいって感情と昨日のその残像が
街の中一人きりと影を伸ばしてく

エンドロールが流れる映画を観ているようさ
ノートに描いてゆく生命線
召喚獣は可愛く 懐くように躾ける
もう一回全部消してしまいたい、ねえ?

”「さあいでよっ!」”と呼び出す”召喚獣”。

そうなると”ノートに描いてゆく生命線”というのはクマのデザインのことかもしれないとも感じる。

クマのデザインをするその線ひとつひとつが、少女の生命に直結する”生命線”なんだ。

そうやって自作した存在が自分に”可愛く懐くように躾ける”というグロテスクな文言の孕む狂気。

ここにあるのは究極の自作自演、自分のことを肯定してくれる友達を自分で作るという自分だけで閉じた世界。

そしてついに「あたしのクマ」が昨日完成した少女は、自分の感情を聞いてくれる相手(=あたしのクマ)に、自分の感情を絶叫している。

 

この曲は、そういう辛い感情をついに吐露できるようになるまでのストーリーと、ようやく吐露された感情の曲なんじゃないのか。

そして、そこには他者は存在しない。

他者と紡ぐべきはずの世界が、自分で作ったぬいぐるみ(自分の分身)とで完結してしまった。

本当に狂気の世界に「昨日」入ってしまった少女の境界線を歌っているんじゃないのか。

僕はそう思いました。

 *

の子は、普段から自分の楽曲について「日記帳のようなもの」と表現している。

(2ページ目)神聖かまってちゃん・の子が音楽を作り続ける理由「すごく負けず嫌いで、飢餓感もかなりある」 - Real Sound|リアルサウンド

日記というのは誰かのための創作ではない。

どこまでいっても自分との対話、自分のための創作だ。なんで自分のために創作をしなきゃいけないのか。そうしないと心が救われない人がいるからだ。

だからこの曲だって日記だし、まさに”日記的創作”について歌っている、と解釈する。

 

自分のためにものづくりをし、やっと叫ぶことができた。

私を解放するためのものづくり。

それを、独りでずっと抱きしめて闇に落ちて行くのが大切な、、、いや必要なこともあるんじゃないでしょうか。

あたしのクマ ぬいぐるみクマ
真っ黒に染めるこの世界を抱きしめてく
寂しくなるから