明日が第1回新人フリコンの結果発表ですね。
私ですらなんだか落ち着かなくて、気が気じゃないんですよね…。
参加されて、特に一次通過されている方々のお気持ちは計り知れません。
楽しく大団円迎えられるといいな!
基本的にゲームは楽しみたいと考えているタイプなんですが、コンテストに際していろいろ考えてたら、「当然、コンテストなので順位がつく」という当たり前のことに頭が爆発しそうになってしまいました。
もちろんコンテストは楽しい。みんなわくわくして、しのぎを削っている。自分だって楽しく結果を待っている。
でも、結果発表の前にいつも少し、結果が決まってしまうことへの怖さとかさみしさというのがいつも心に同居している気配がする。
本記事はコンテストを否定するものじゃなくて、そういう自分のさみしい気持ちを考えてみて、改めていろいろ考えちゃったというお話です。
「面白いって何だ?」とか「ゲームって何だ?」と。
もちろん答えがあるわけではない雑記ですが、考えたこと、その経緯を書いてみます。
(ほんとに脈絡ととりとめがないので、眠れない夜に読んでください)
* * *
ゲームを楽しむということ。
そこに関わる私の好きな概念に「ナラティブ」という考えがあります。
[CEDEC 2013]海外で盛り上がる「ナラティブ」とは何だ? 明確に定義されてこなかった“ナラティブなゲーム”の正体を探るセッションをレポート
要約は細部が漏れてしまうため、面白い記事なのでできれば上の記事も読んでみていただきたいです!
(『風ノ旅ビト』や『ドラゴンクエスト』『ワンダと巨像』など、名作ゲームたちを例に挙げてどうしてこんなに面白いのかというのを語られています。それだけで幸せな記事)
ですが、簡単に言うと「ゲームを遊んだ自分自身の中に生まれる自分だけの物語」、とでも言えるでしょうか。
自分はこの概念がとても好きです。
その理由はきっとシンプルで、「ナラティブ」という考えは「面白さの責任をゲームの側に一任しない」考え方だからだろうなぁと思うのです。
もう少しわかりやすく説明しますね。
もう一度、(粗末ですが)自分の要約を見てみます。
◆ナラティブ=「ゲームを遊んだ自分自身の中に生まれる自分だけの物語」
一箇所、強調しておきたいことを疑問として投げかけさせていただきます。
すなわち「自分だけの物語を生むのは誰なのか?」
私はそれを「ゲーム」であり「自分自身」であると捉えています。
”ゲームが”私にナラティブを生み出す一方、
”私が”私のために、私の中のナラティブをつくるのです。
ゲームとの共同作業の成果として。
作品を投げつけられて「楽しまされる」ことは当然起こるし、制作者も「楽しませよう」としているだろうけど
— にわりん@フリーゲームVtuber (@Niwarin_Vtuber) 2020年7月30日
けど、「楽しむ」の主語は自分にしかならんのだ
「楽しむ」ことにはエネルギーと能力がいる
ロマンチックな言い方に聞こえてしまうかもしれませんが、私がゲームに代表される創作物が好きなのは、まさに自分の中に素晴らしい「ナラティブ」を生み出してくれる相方を探しているからなんじゃないか、と感じています。
だからこそ、記事のタイトルになるわけですが「ゲームプレイは、ゲームとプレイヤーの”間”」にあるものと考えるわけです。
As long as there is interactivity, it's a game. It's that simple.
— Murazrai(ムラズライ)🎼@Virtual Composer and Gamer (@murazrai) 2021年1月28日
上記はマレーシアから日本のフリゲをプレイされているムラズライさんのツイート。
意図から少し外れてしまっているかもしれませんが、とても良い言葉だなぁと思ったので引用させていただきます。
(YouTubeチャンネルはこちら)
上記は自分が「ゲームって何だ?」と呟いたのに対するムラズライさんからの回答です。
「双方向性がある限り、それはゲームです。とても簡単です。」
この「interactivity=双方向性」という言葉、それを私はもう少し広く受け取ってみました。
「ゲームというのは、ゲームから私に働きかけ、私がゲームに働きかける双方向の運動である」と。
そしてこれが冒頭のナラティブの話にも繋がるのですが、だからこそゲームの面白さをゲームの側だけに責任転嫁するのは違う、という立場を自分をとります。
なぜなら、ゲームが私を楽しませようとし、私がゲームを楽しもうとする、その”間”こそが私に作用するからです。